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三星堆遺跡 2006.07.30更新
【和:さんせいたいいせき】 |
【中:san xing dui yi zhi】 |
殷・周時代>三星堆遺跡>三星堆遺跡
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成都市から北に約40km,広漢市郊外の三星堆村付近にある四川の青銅器時代を代表する遺跡。この付近では,1920年代以来,繰り返し大量の玉器や土器が出土し,古代遺跡の所在地であることが知られていた。1986年の夏, この地で行われた上取り作業中に偶然2つの竪穴土坑が発見され,中から総量1トンをこえる多量の青銅器が出土して,世界的な話題となった。青銅器はその数量が多いことだけでなく,その形態に表現された文化の内容が,それまでは未知の,きわめてユニークなものととて研究者の関心を集めている。青銅器の年代は黄河流域の殷王朝後期と同時期とみられるが,その大部分は,殷王朝の青銅器とはまったく異質の文化的所産というべきものでぁった。『華陽国志』などに伝えられる古代蜀王国の高度にして独自の文化が,はじめて我々の前に姿をあらわしたのである。
青銅器のうち,高さ2.6rnの台座付き立入像,長大な両耳と双眼鏡のように突き出た両眼をもつ幅約1.4mの奇怪な仮面,それに高さが4mにも達する青銅神樹の3点は,最も注目される発見であった。立入像は,祭祀を取りしきる神官や蜀王の姿であろうか。両眼が突き出た巨大な仮面は,文献に伝えられる「縦目」の蜀王「蚕叢」その人の表現とみられる。青銅の神樹は,『山海経』にあらわれる若木ないし扶桑の樹を表現したもので,太陽信仰の象徴とする説がある。このほか,大小25点の青銅仮面,実物大の50点の青銅人頭像などが出土した。殷・周王朝における中国伝統の青銅器は,一般に鼎のような供献si用の容器(ネと器)であるのに対し,蜀王国では神殿になかれる偶像としての青銅像がつくられていたことは,大きな違いとされている。また青銅器にともなって,璋・戈・瑗などの玉器や,多数の象牙なども出土した。青銅器を出土した土坑は,ある種の祭祀における器物の埋蔵であったという説と,古代の蜀国におきた王朝交替の戦いで,前王朝の宝器が廃棄されたものとする説がある。三星堆遺跡ではその後,大きな城壁の存在も確認され,広漠県の地が当時の四川盆地における大規模な祭祀センターとして, また政治的中心として栄えていたことが知られた。そして彼ら古代蜀王国の文化が,当時の中国大陸のなかでもきわめて独自の伝統を形成していたことが明らかにされつつある。出所:「中国の歴史散歩〈4〉」
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