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河南龍山文化 2007.02.26更新
【和:かなんりゅうざんぶんか】 |
【中:He nan long shan wen hua】 |
新石器時代>河南龍山文化
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河南龍山文化(B.C.2700~B.C.2200)
黄河中・下流域の新石器時代晩期の文化です。
<廟底溝二期文化>
廟底溝二期遺址(B.C.2780)
1956年~57年、河南省陝県の廟底溝が発掘され、仰韶文化層の上部に別の文化層が出現しました。房址1 座、窖址1 座、窖穴26个、墓葬145座が発見されました。陶窖は横穴から進歩した竪穴窖です。土器の97%が灰陶で、まれに細泥紅陶が見られます。黒陶はありませんが龍山文化と同じ特徴を示しています。早期龍山文化ですが、仰韶文化の特色も残っています。
河南龍山文化
豫西・豫北・豫東一帯に分布し、王湾三期類型・後岡二期類型・造律台類型の3類型(李仰松『中国考古学会第一次年会論文集』 1980 文物出版社・厳文明「龍山文化和龍山時代」『文物』1981-6・中国社会科学院考古研究所『新中国的考古発現和研究』 1984 文物出版社)に分類されます。
<下王崗類型>…B.C.2700~B.C.2200
下王崗遺址
河南省西南部の淅川県南の下王崗村丹江南岸から発見され、面積は約4000㎡です。長江支流漢水流域の新石器時代仰韶文化と商・西周の遺址の下にありました。1971~1974年、河南省博物館が発掘しました。長江支流と黄河支流との間の南北新石器文化の分布・特色・関係を知る貴重な遺址です。
新石器文化遺存は5期に分類されます。早一期は仰韶文化下王崗類型です。打製と磨製の石器で、土器は紅陶で、鼎・罐・鉢・壺が主で仰韶文化早期の特色を示します。埋葬は単人仰身直肢葬の土坑墓です。
早二期は仰韶文化です。土器は灰陶・棕色陶が主で、まれに紅衣黒彩陶・灰衣紅彩陶・白衣彩陶が見られます。埋葬は二次葬の合葬(2~6人)が大半で、随葬品は明器です。
中期は屈家嶺文化、晩一期は龍山文化、晩二期も龍山文化で土器は灰黒色で籃紋・方格紋・縄紋が見られます。
<王湾三期類型>
1959年発見の洛陽王湾遺址から命名され、王湾類型・煤山類型・三里橋類型の3種類があります。豫西地区の鄭州・洛陽の伊河・洛河流域、関中東部に分布しています。
洛陽王湾遺址・鍗李遺址・孟津小潘溝遺址・臨汝煤山遺址・登封王城崗遺址・密県新砦遺址・陝県三里橋遺址・陝西華県泉護村遺址・華陽横陣遺址などの遺址があります。
土器は泥質・夾砂の深灰陶が主で、褐陶・黒陶が次ぎ、紅陶は原則的に見られません。籃紋・方格紋・縄紋があります。
王湾三期類型は廟底溝二期文化の発展したものです。煤山・鍗李遺址などの地層関係・文化内容が、王湾三期類型から二里頭文化への発展過程を示しています。王湾三期類型の方格紋は後岡二期類型にも見られ、両者の文化上の連携が伺えます。三里橋類型の袋足鏸は、山東龍山文化の典型的な器物です。王湾三期類型は夏文化の前身的な中原地区原始文化といえます。
洛陽王湾遺址
河南省洛陽市西郊谷水鎮付近で発見され、1959~1960年、北京大学考古専業が発掘しました。黄河中流域新石器時代仰韶文化・河南龍山文化と周・北朝の遺址のしたから見つかりました。豫西(河南省西部)地区の仰韶文化とこの地域の龍山文化の継承関係に重要な根拠を与えます(北京大学考古実習隊「洛陽王湾遺址発掘簡報」『考古』1961-6)。6 段階三期に分類されます。
王湾一期は仰韶文化廟底溝類型です。抔形口尖底瓶と重唇小口瓶(子供の埋葬具)の共存が見られます。仰韶文化廟底溝類型の彩陶に近似した花卉図案の盆が出土し、重唇小口瓶の方が抔形口尖底瓶よりも新しいという層位関係が判明し、中原地区の仰韶文化諸類型の系譜問題に重要な根拠を与えました。
王湾二期は仰韶文化秦王寨類型(B.C.3390)です。彩陶壺の図案が成熟した"花卉"図案(六角花等)となり、急速に退化分解してX紋・S紋に変化しました。
王湾三期は河南龍山文化(B.C.2390)です。土器に、斝(儀式用の酒器)と、鬲(中空の三本足の鼎)が出現し、彩陶・圏足盤・単柄杯等が見られなくなります。叩きによる方格文・籃文、縄文砂質壺等が流行しました。総じてこの遺跡の遺物・遺構は、豫西地区の文化的特徴を示しています。
王城崗遺址
河南省登封県王城崗から1954年発見され、1959年中国社会科学院考古研究所徐旭生が調査、1975年河南省文化局文物工作隊が調査、1976年発掘、1983年夏鋿が指導しました。裴李崗文化・龍山文化・二里頭文化・二里岡文化・商晩期・西周・春秋の各時代の遺物出土しました。城壁は一辺が90m前後の小さなもので、夏王朝創始者禹の都(陽城)かともいわれています。
陽城とは、『国語・周語上』に「昔夏之興也、融降于崇山」とあります。韋昭の注では「崇、崇高山也。夏居陽城、崇高所近」とあり、崇山とは嵩山であり、現在の登封県に位置します。また、『竹書紀年』に「夏后氏、禹居陽城」とあり、『漢書・地理志』の『世本』には「禹都陽城」とあります。『孟子・万上篇』には「禹避舜之子于陽城」とあります。『史記・夏本紀』に「禹避舜之子商均于陽城」とあり、劉煕は「潁川陽城是也」としています。『水経注』の巻二十二潁水条下には「潁水出潁川陽城県西北少室山」とあり、靍道元の注では「潁水又東、五渡水注之、…其水東南流逕陽城西、昔舜禅禹、禹避商均、伯益避啓并于此地」とあります。少室山系は嵩山の主峰の一つで、『括地志』に「陽城在箕山北十三里」とあります。そこで、『登封王城崗与陽城』(河南省文物研究所・中国歴史博物館考古部 1992 文物出版社)では、王城崗遺址は上記書物の記載と地理的にも一致する、としています。
王城崗龍山文化二期(B.C.2150~B.C.1750)からは、杯の腹部・豆の盤口沿・瓮の肩部・豆の柄部に刻画符号のある土器が出土しました。
王城崗龍山文化三期の遺存からも、杯の底外部・碗の腹部・瓮の肩部に刻画符号のある土器が出土しました。 出所:小林松篁
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