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秦始皇(始皇帝) 2007.04.25更新
【和:しんしこう】 |
【中: Qing shi huang】 |
秦・漢・三国>秦始皇(始皇帝)
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紀元前259年の正月、秦始皇は趙 国の邯鄲に生れ、秦の祖先は贏という姓で、名は政を取って、贏政と言った。 紀元前247年秦莊襄王の子楚が死んで、13歳の贏政は秦王になった。 国家の大事は全部太后と相父の呂不韋で主持した。この時、秦国は六国を呑滅する準備した。紀元前238年、秦王政は22歳で、自ら執政し、長信侯の叛亂を平息した。翌年、又、呂不韋の相權を免去して、四川へ貶した。それによって、呂不韋は自殺した。次は、 六国を兼併する戰爭を始めた。春秋戰国以来、中国大地に数百年続いた諸侯爭霸の混戰局面を収束し、天下は秦によって統一された。秦の疆域は東南は海まで、西は臨トウまで、北は陰山至る遼東一綫までになった。この時贏政は39歳である。天下を統一したあと、贏政は自分が徳は三皇より高く、功は五帝を過ぎて、号稱は皇帝すべき。それ以後、中国歴代の君主は皆皇帝と稱する。贏政は始皇帝と稱し、意はかれを始め、子孫は二世、三世至る万代まで無窮に傳える。始皇帝は帝国統一を維護する措施を推行した。殷、周以來の分封制を廢除して、郡縣制を實行した。中央に三公九卿を設し、皇帝に助けて、 国家大事を行う。こうして中央から地方まで、一切の權力は皇帝に集中した。中央から度量衡の標准器を頒發して、全国の度量衡制度を統一した。又、車軌の幅は六尺を決めて秦の小篆を全国の通用文字を決めた。即ち車同軌、書同文というである。思想文化を統一するため、始皇帝は全国で焚書坑儒の行動を行って、統治に利かない儒家著作及び各国の史書を燒いてしまった。 咸陽の 渭水の畔に一回400の儒生を殺した。又驪山の麓の下に700余名の儒生を生きて埋めた。 これらの措施は全国の政治、經濟、軍事、文化思想上に高度の統一を達した。政務に對して、始皇帝は非常に重視し、毎日各地からの文書を見て (その時、木、竹の片に刻んっだので)、毎日見たのは120斤あった。この数字にならなければ休まないから、常に深夜までに讀んだ。かれは全 国に至るに馳道を築くのを命じて、5回車に乘って馳道に沿って、全 国を出巡した。北方の領土を守るために、大將蒙恬に軍隊を率わせて、匈奴を防いだ。又戰国時代に各国の長城を連がって、西は甘肅の岷山から、東は遼東まであわせて1万里餘であるので、万里長城と稱した。南方では、秦始皇帝は兵を派して五嶺を戍守して、運河靈渠を開いた。これらの措施は統一国家の建設に對して、程度でない役立ちをした。 秦は天下を統一してから、始皇帝は統一成果を強めるため、多くの有益な措施を實行した同時に樣樣な殘暴の事をやった。かれは13才即位したばかり自己の陵墓を修建し始め、統一してからその工事をなやくした。 全国で多くの離宮別館を建って、いわゆか關内に三百、關外に四百餘という規模があった。史書によって,當時,秦始皇帝陵と阿房宮の工事に從事した勞動者は70万人以上であった。 當時全 国の有限な財力、人力、物力でお大いに土木工事に從事したので,男子は耕しても糧餉に足らず,女子は紡績しても帷幕に足りないという状態になった。 秦始皇は五行學説の影響を受けて,十分に方士らの提出した長生不老を信じて,百官と群臣を率いて,泰山へ封禪して、5回も大規模の出巡した。5回目の出巡は平原津に至った時, 始皇帝は重病になって,死後の皇位の繼續を考えて、老成持重で、政治頭腦のある長男扶蘇を思出した(扶蘇は秦始皇の焚書坑儒政策に反對したので、北方へ監軍にして)。始皇帝は扶蘇を皇位を受けさせために、隨侍の宦官趙高に、扶蘇をはやく咸陽に歸らせ、喪葬を守って,即位の准備するよう指示書信をした。書信をよく封じて、趙高は遲く遲く出さなくて自分の手中に隱れている。出行の車隊は沙丘(今河北平郷)に行った時、秦始皇帝は50才で死亡した。
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