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張議潮出行図(壁画模本) 2007年09月08日(土)更新
【和:ちょうぎちょうしゅつこうず】 |
【中:Zhang yi chao chu xing tu】 |
隋・唐・五代>彫刻・書画>張議潮出行図
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晩唐
縦108cm、横856cm
甘粛省敦煌県莫高窟第156窟
敦煌研究院蔵
関友恵、馮仲年、蘭州芸術学院模写
『張議潮出行図』は莫高窟第156宮内の南壁と東壁の南側の下部に描かれたもので、仏教と無関係の歴史人物画である。
唐の天宝14年(紀元755年)、安禄山と史思明が朝廷に叛いて、7年の長きにわたった「安史の乱」を引き起こした。西蔵高原に住む吐蕃族はまさに勢力の強大な時期にあり、唐王朝が西域と河西(黄河の西)の駐兵を内地に移動させ、内乱を平定する機に乗じて河西に侵入した。建中2年(紀元781年)、沙州もまた吐蕃に統治されるようになった。
沙州(敦煌)の住民は孤立無援の状況のもとに、唐王朝のために11年の長い間固守したが、ついに矢折れ糧食も尽き、ようやく沙州の住民は沙州を離れないという条件で吐蕃に投降した。吐蕃の支配下におかれた河西と隴西の住民は唐王朝を非常に懐かしみ、唐の彼が来るたびに皆涙を浮かべて東方を拝し、天子の安否を尋ね、ひそかに蕃軍の状況を告げ、朝廷が一日も早く河西・隴西の地に復すよう願った。
9世紀の中葉、吐蕃に内乱が起こり、沙州の将軍張議潮は機に乗じて、 ひそかにすぐれた兵士を結集し、大中2年(紀元848年)に蜂起するや、沙州の住民は皆これにこたえ、吐蕃の守将は驚いて逃走、議潮は天子への表を奉じて唐に帰った。咸通4年(紀元863年)3月、議潮はまた「自ら吐蕃と漢の兵七千を率いて涼州を奪回した」。ここに至って、長安に直通するシルクロードが開けた。唐王朝は勅を下して張議潮を河西の節度使に封じ、敦煌に駐在させた。張議潮の功績を嘉し、広く讚えるために、およそ咸通5年(紀元864年)前後に莫高窟第156窟を造営し、石窟内の南北の壁に『張議潮出行図』と『宋国夫人出行図』を描いた。
『張議潮出行図』は、百人余りの人物によって構成されており、前方は儀仗や警備の士、中央部は馬に乗った節度使張議潮、後方は物資供給や狩猟の騎兵隊である。出所:『敦煌・西夏王国展』図録
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