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敦煌莫高窟第17窟模型 2007年09月09日(日)更新
【和:とんこうばっこうくつだい17くつもけい】 |
【中:Dun huang mo gao ku di 17 ku mo xing】 |
隋・唐・五代>彫刻・書画>敦煌莫高窟第17窟模型
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晩唐
この洞の番号は17窟であるが、16窟の通路の左側に掘られ、これは16窟の窟主、洪(巩+言)の「影窟」(御影堂)である。平面は方形、7.84㎡、伏斗形の天井をもち、床からの高さは3mである。
洪(巩+言)の俗姓は呉、また呉和尚とも言う。唐の大中2年(8481)、張議潮が吐蕃を駆逐して瓜州・沙州等の地を修復して唐の領内に復したとき、洪(巩+言)は弟子の悟真を長安に遣わして唐の朝廷に表(天子への文書)を奉った。朝廷は勅を発して洪(巩+言)を「釈門河西都僧、沙州)を統轄する僧政法律三学教主」に封じ、あわせて紫衣を賜わり、「京城内外臨壇大徳」の称号を授けた。恐らくこの時に、洪(巩+言)の「影窟」を造ったのであろう。石窟内の正面の壁の下には「禅影」(座)を設け、洪(巩+言)の修禅の坐像を塑造している。像の高さは94cm、肩にかけた袈裟には彩絵が施され、顔の塑造は生きているかのようで、表情に荘重な慎み深さが感じられる。壁には菩提樹が二株、清浄な瓶と肩掛鞄がかけてある。木の下には団扇を持つ比丘尼と杖と布巾を持つ侍女が左右につき従って立っている。杖、団扇、扇掛鞄、瓶、布巾は皆、洪(巩+言)が日常使った物である。右側の壁には、唐の大中5年の石碑が一つはめこまれ、その碑の高さは1.5、幅は70cmである。碑文は上、中、下の3段に分かれ、洪(巩+言)の出身、数枚の詔書、勅賜の衣についての記録がある。11世紀の中期頃、戦乱のため、寺院は逐次、大量の仏典の写本や絹絵等の各種の文物四万余点を石窟の中に封蔵し、八百余年の間だれにも知られなかった。清朝の光緒26年(1900)、僧の王円籙がこの洞窟を発見し、蔵経洞と名づけた。洞内の経の多くは盗まれて、フランス、 イギリス、 ソビエト、 日本等の国へ流れてしまった。出所:『敦煌・西夏王国展』図録
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