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華山図冊 2007年12月07日(金)更新
【和:かざんずさつ】 |
【中:Hua shan tu ce】 |
明・清|彫刻・書画>華山図冊
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王履筆
紙本著色
(第一、三、四、五、大、七、八、十、十一図)
紙本墨画
(第二、九図)
各図とも 縦34.7 横50.5
明・洪武十六年(1383)
上海博物館蔵
王履は字を安道といい、晩年は崎叟、抱独老人などと号した。元の至順二年(1332)に昆山(江蘇省)で生れた。群書に精通し金・元時代の四大名医の一人といわれた朱彦修に学んで医学者として名を馳せた。著に『傷寒九十七方弁』がある。また詩文、書画をよくし、特に山水画にすぐれた。南宋画院の馬遠、夏珪を師法したが、古法にとらわれることなく新意と士気のある画をめざしたという。その作品は伝世することが少なく、この華山図冊は現存する王履の希有の作品である。
洪武十六年(1383)七月、五十二才の王履は華山に遊んで、その実景を写して四十図をなし、また「游華山図記詩序」、「始入山至西峰記」、「上南峰記」、「過東峰記」、「宿玉女峰記」の四篇の記、「重為華山図序」、「披図喜甚戯賦比」と「入山」に始まり「古藤疑為蛇暢然」に終わる一五〇首の詩、「画楷叙」一篇をなした。
図は王履がたどった順に展開する。即ち、山外、玉泉院(第一図)、瀑布、鏡泉、摘木実如柚者、希夷匣、上方峰(第二図)、由上方峰根北転遇三樵人、第一関、近青珂坪転処、日月岩、百尺撞、千尺撞、山神祠、蒼龍嶺下段、蒼龍嶺上段(第三図)、蒼龍嶺頂(第四図)、鎮岳宮、巨霊逃迹(第五図)、西峰東望玉女殿背、西峰峰頂望南峰、南峰東面(第六図)、避詔岩(第七図)、真武祠(第八図)、避詔岩底北旋、自避詔岩東転至真武祠、賀師避静処、坐安真人肉身之所望南峰端、南峰頂、龍潭、龍神祠、去東峰山祠途中、東峰項見黄河潼関、明星玉女殿在望(第九図)、玉女峰項望西峰東面蓮花形(第十図)、玉女峰項、唐玄宗抛簡処、仙人掌、玉女峰後、玉女峰待月(第十一図)
の四十図である(各図の題は薜永年『王履』による)。各図とも変化に富んだ華山の実景を巧みな布置と秀勁な筆致により写しており、特に王履その人と思われる人物の微小な存在は山の大きさを実に見事に際立たせており絶妙である。「洪武十六年歳次癸亥秋九月十有二日畸叟」の款記をもつ「游華山図記詩序」において「吾は心を師とし、心は目を師とし、目は華山を師とす。」とのべているが、本図は、南宋の画院画家、元の文人画家のいずれとも異なる極めて新意のある王履独自の画風となっている。
華山図冊は王履の甥の王緒から同郷の武氏の所有するところとなったが、その後、明末の李日華の収蔵した時には既に二冊に分れていたという。清の金農は頁首に「明高士王畸叟游華山詩画」と題書し、また下冊十一幅に題簽した。清末に下冊は涂水の李氏の所蔵をへて上海文物管理委員会、上海博物館の所蔵となった。現在、他は北京の故宮博物院に所蔵されている。故宮博物院において明人尺牘の中より、従来、欠落していた王鏊、周天球、王世貞、張鳳翼、王穉登の題跋六段がみつかっている。また、明の陸治の臨本があることでも知られる。出所:「上海博物館展」
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