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細雨虬松図 2007年12月13日(木)更新
【和:さいうきゅうしょうず】 |
【中:Xi yu qiu song tu】 |
明・清|彫刻・書画>細雨虬松図
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原済筆
紙本著色
縦100.8 横41.3
清・康熙二十六年(1687)
沈同樾氏寄贈
上海博物館蔵
原済の本名は朱若極という。原済は法名である。字を石濤といい、字の石濤をもって一般に知られている。清湘道人、苦瓜和尚、膳尊者、大滌子、小乗客などと号した。明の崇禎十五年(1642)、靖江王朱嘉の子として桂林(江西省)に生まれた。李自成が北京を攻略し明の崇禎帝が自縊した翌年の清の順治二年(1645)、父の朱亨嘉が清軍に捕まり殺された時、石濤は難を避けて武昌(湖北省)に逃れて剃髪した。武昌における学書と学画の生活の後、康熙五年(1666)、二十五才で宣城(安徴省)に移り、その後約十五年間を宣城で過ごした。この時期に石濤は黄山などに遊び梅清などと交友した。康熙十九年(1680)、三十九才の時に愛蔵の書画古器物を友人に与えて宣城を去り、南京郊外の長干寺の一枝閣に隠棲した。康熙二十四年(1685)以後は南京、揚州を往来したが、この間、康熙二十三年(1684)に南京で、また康熙二十八年(1689)に揚州で南巡中の康熙帝に拝謁している。康熙二十八年より四年間を北京で過ごし、清初の六大家の一人であり康熙帝勅撰『佩文斎書画譜』の編集総裁でも知られる王原祁などと交友した。康熙三十一年(1692)秋に五十一才で揚州に帰り、数年後に大滌堂を完成させ、以後晩年に至るまで揚州において売画をして生活したが、乱作であったともいわれる。康熙四十六年(1707)に六十六才で歿した。明末清初を代表する個性的画家であり明の遺民画家として知られるが、生涯、南昌あたりを出ず隠棲した遺民画家である朱耷(八大山人)とはかなり異なる立場にあったといえる。弘仁(漸江)、髠残(石谿)とともに「明末三和尚」、また朱耷と併せて「明末四僧」といわれる。著書にすぐれた画論として知られる『画語録』がある。
細雨虬松図は康熙二十六年(1687)、四十六才の作。この年の春、石濤は揚州において孔尚任の秘園雅集で襲賢、査士標などと交友している。そして夏、子老道翁が宋の羅紋紙を出して画を求めたのに応じ細雨虬松図を描いた。「細雨虬松」とは自題に識されるように石濤のかつての自作の句「細雨霏霏(もやもや)として遠煙湿(うるお)い、墨痕紙に落ちて虬松禿なり」による。また、「潑墨数十年、未だ嘗て軽々しく人の為に山水を贈らず」と述べ、
この図を描くことが特別であることを述べている。特異な形をして聳える大山の懐には山居する人がおり、瀑布に源を発する渓水にかかる橋上には散策する人が歩む。手前の岩上には虬(みずち)のように屈曲する松が葉を落とした姿を横たえている。濃淡の水墨と淡い代赭と藍と朱などの色彩を効果的に用いて極めて清逸である。住友家旧蔵の三名品、すなわち黄山八勝図冊、黄山図巻、廬山観瀑図(ともに泉屋博古館蔵)とともに石濤の代表作とされる。自賛の款記は「清湘石濤済山僧」と書かれ、印は「苦瓜和尚」朱文楕円印、墨池飛出北溟魚」白文方印、また「法門」白文長方印、「蔵之名山」自文方印が鈐されている。出所:「上海博物館展」
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