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趙 匡胤 2008年02月09(土)更新
907年に唐が滅んだあと、979年に宋が全国を統一するまでの70年間、中国は「五代十国」と呼ばれる大分裂時代を経験した。すなわち、華北に後梁・後唐・後晉・後漢・後周の5王朝が相次いで興りそして滅んだので「五代」、その他の各地に前蜀・後蜀・呉・南唐・呉越・門(びん)・荊南(けいなん)・楚・南漢・北漢が存在したので「十国」と呼ばれる。これら諸国は主として唐末に各地に置かれた節度使が独立したものだった。唐末の節度使は、募兵の長であり、その地方の行政権と同時に軍を統括する権限を与えられ、しかも唐末の混乱の中で頭角をあらわした武人たちが多かった。彼らはみな直属の部隊をもち、それらを親衛隊としていた。五代最後の国、後周は第2代世宗が五代きっての名君で、後晉のとき契丹に奪われた燕雲十六州のうち3州を奪回し、また南方でも長江以南を平定した。この世宗にしたがい、節度使として軍を一手に握っていたのが趙匡胤、のちの宋の太祖だった。
959年、世宗は契丹討伐に向かう途中で病に倒れ、39歳で死んだ。わずか7歳の宗訓が次の皇帝としてたてられたが、将軍たちは、全軍の将、趙匡胤を皇帝に推すことを決定し、翌年正月、幼い皇帝に帝位禅譲の儀式を行わせた。趙匡胤はこの時、酒に酔いつぶれて熟睡しており、たたき起こされて皇帝の服である黄袍(こうほう)を着せられ、馬の鞍に押し上げられて都にとってかえしたという。
こうして宋の太祖となった趙匡胤は、軍閥割拠の社会を文人官僚による中央集権体制に切り替え、内政や軍事面での大改革を断行した。天子を決裁者とする複数合議制の原則を打ちたて、以来、清末に及ぶ。出所:「やっぴらんど≫楽しい世界史≫中国史≫」
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