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宝噋古城遺跡 2008年04月01(火)更新
【和:ほうとんこじょういせき】 |
【中:Bao dun gu cheng yi ji】 |
建造物・遺跡・墓|>宝噋古城遺跡
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宝噋古城遺跡は、成都市の市区から西南に38kmほど離れた新津県龍馬郷にある。この遺跡は現在でも巨大な城壁が残存している。この古城はいつ築かれたものなのか、誰が築いたものなのか、地元の人達でさえ分からず、さまざまな奇性な伝説に包まれている。諸葛孔明が軍隊を訓練するために築いた城だとか、彼らが自ら征服した蛮族の首領の孟獲を住まわせるために作ったものだとか、昔からまことしやかに伝えられている。
95年秋と96年に、成都市文物考古隊・四川大学・早稲田大学長江流域調査隊により結成された共同調査隊が宝噋古城遺跡において前後二度にわたって科学的な調査を行った。この古城遺跡の形はほぼ長方形を成しながら、やや北東南西方向にあり、南一北城壁はそれぞれ600mほどで、東一西城壁はそれぞれ1000mほどある。一周すれば、城壁の全長は3200mあり、総面積が60万㎡以上に達する。
この城壁の構造を明らかにするために、共同調査隊は遺跡の範囲における周辺地域よりやや高い一ヶ所の丘を選んで試堀を進めた。地面に残存しているこの丘は周りの地面より約lm高く、長さ縦42.5m、最上部の幅4.5cm、底の幅が6.5cmある。試堀した結果、この丘は自然の盛土ではなく、人工で築かれた城壁であることが分かった。城壁が断ち切られた断面によって、四っの厚い地層に分けられ、その中にさらにいくつかの薄い地層があり、土の色の差もかなり著しい.
さらに、断ち切られた城壁の断面を見ると、この城壁の建造方法は黄河流域で,見られる城壁とは異なり、中原でよく利用された版築ではなく、成都平原における新石器時代特有の堆築法で築かれた。堆築法とは、土を盛り上げては層ごとに板や棍棒などの道具を駆使して突き固めていったものである。
宝噋遺跡の年代について、地層関係から分析してみると、この城壁は宝噋遺跡の早期地層の上に築き、また、この城壁を造る時、早期地層を打破したと思われる遺跡も見つけられた。したがって、この城壁が構築された年代は、早期地層より新しいことは明らかである。また、その地層から出土した土器の胎質、形態、模様などから見て、今から4000~4900年前の新石器時代である「三星堆一期」・綿陽辺堆山遺跡・漢源獅子山遺跡の出土品と比較してみれば、相互間の共同性が高いとみられる。さらに、宝噋遺跡から採収された二つのサンプルを測定した結果は4405±95B.P.と4385±70B.P.である。このデータは4500B.P.前後であるため、前述した類型学の比較結果とほぼ一致する。このことから、宝噋城壁の年代は新石器時代晩期であることが判明した。出所:『中国四川省古代文物展』-三国志のふるさと、遥かなる大地の遺宝2000
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