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清東陵
2008年06月01日(日)更新
【和:しんとうりょう】 |
【中:Qing dong ling】 |
面白テーマ|明・清>清東陵
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清代皇室の陵墓群である。河北省遵化県馬蘭峪にある。全部は孝陵(順治帝)、景陵(康熙帝)、裕陵(乾隆帝)、定陵(成豊帝)、慧陵(同治帝)の5つの陵墓からなっており、ほかにまた5カ所の皇后陵、5カ所の妃陵と4カ所の皇女の墓がある。つまり5人の皇帝、15人の皇后、136人の妃、3人の皇子、2人の皇女と合わせて161人がここに埋蔵されているのである。580の単体建築物がある。神道の長さは14.500kmで、総面積は78km2に達している。
清の東陵の造営は西暦1661年(清の順治十八年)の孝陵の築造に始まり、1908年の東陵(慈薩太后陵)の完工を以つて全工事の終了を告げた。清の東陵は、快適な気候だけでなく、雨も日照もほどよく、各種自然条件にめぐまれ、四季の区分をはっききりしている得難い「宝の地」である河北省遵化県馬蘭峪を選んで、中国独特な伝統風水学理論の指導のもとで造営されたものである。
十三陵は全体から見れば、山海関以南の地に入つた清代最初の皇帝・順治帝の陵墓―孝陵を中心としている。この孝陵は、地相が最も素晴らしいとされた昌瑞山主峰の南麓に所在しており、他の陵墓はそれぞれ山の斜面に沿つて、扇形のように孝陵の東西雨側に点在されている。清代統治者が山海関以南の地で造営した最初の陵墓として、規模はかなり大きい。金星山麓の石牌坊から北の順に、それぞれ下馬牌、大紅門、具服殿、神功碑聖徳亭、石像生、龍鳳門、一孔橋、七孔橋、五孔橋、下馬牌、三路三孔橋および東平橋、神功碑亭,神厨庫、東西朝房、隆恩門、東西燎爐、西脇殿、隆恩殿、琉璃花門、二柱門、祭台五供、方城、明楼、宝城、宝頂と地宮(墓室)などがある。大小さまざまで数10に上るこれらの建物は、長さ約6kmの神路(参道)により、完全な陵墓建物シリーズをつくりあげている。
これらの建物は、配置も組み合わせも、風水学の中の「形勢理論」に基づいて、大小、高低、遠近、疏密などに対して、「百尺を形とし、千尺を勢とす」という尺度で視覚的コントロールを行った。各景勝の地に対しては、いずれも建物の対応景色、補助景色として上手に借用している。その結果、「遠勢を駐めて以って環形とす 巧みに形を乗めて勢を展める」の目的が実現され、「高いが険せず、低いが卑せず、疏はあるが寂しくせず、密はあるが迫らず」、及び「静の中に動あり、動の中に静あり」といつた素晴らしい視覚的効果と美的楽しみを観る人に与えている。
大石牌坊は清・東陵のシンボルマーク的建物で、陵区の表玄関となる「大紅門」の前にある。間口は31m以上で、高さは12.5m、中国のトップとなる鳥居式の門である。300年この方、高くて立派なこの建築芸術の作品は、何回も地震に揺られたが、今も最初のままで健在している。
隆恩殿前の龍鳳丹陛石は、慈禧(西大后)の陵墓となる隆恩殿前の石の欄干のことである。西太后は1人で政権を握っている機に乗じて、何年も修理を怠つている口実で、光緒二十一年(1895年)から、菩陀峪に所在する彼女の陵墓を建て直させた。工事は、彼女が死ぬ数日前にようやく完成するまでは13年もの歳月が費やされた。隆恩殿を囲む周辺の石の欄干には、各種形態の竜や鳳凰の彫刻が施されており、透かし彫りの手法を駆使した殿前の丹陛石の上に彫られた鳳凰や竜は、とりわけ生き生きとして真に迫っている。一般の丹陛石に刻された竜や鳳凰は、竜と鳳凰が並んでいるように彫られているが、慈禧陵の丹陛石だけは、「鳳凰が上、竜は下」のように彫られている。出所:中国世界遺産「明・清時代の皇室陵墓」
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