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井真成墓誌(1基) 2008年07月08日(火)更新
【和:「せいしんせいぼし】 |
【中:「Jing zhen cheng mu zhi】 |
隋・唐・五代|>井真成墓誌(1基)
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石
身:縦403、横39.2、厚10.5
蓋:縦37.9、横37.3
伝陝西省西安市東郊出土
唐時代・開元22年(734)
[井真成墓誌 銘文]
贈尚衣奉御井公墓誌文并序
公姓井字真成国号日本才称天縦故能 □命遠邦馳聘上国蹈礼楽襲衣冠束帯□朝難与儔矣豈図強学不倦問道未終
□遇移舟隙逢奔駟以開元甘二年正月 □日乃終于官弟春秋冊六 皇上
□傷追崇有典 詔贈尚衣奉御葬令官
□即以其年二月四日窆于万年県滻水 □原礼也鳴呼素車暁引丹旐行哀嵯遠
□兮頽暮日指窮郊兮悲夜台其辞日
□乃天常哀茲遠方形既埋於異土魂庶帰於故郷
墓誌によると、井真成は生まれつきの優れた才があり、そのため君主の命で、唐に派遣された。唐では中国人としての身だしなみや教養を完全に体得し、懸命に勉学したので、将来役人になったら、かなうものはないと思われたが、開元22年(734・天平6)正月に、36歳で急死した。時の皇帝玄宗は、その死を悼んで尚衣奉御という格式高い官職を贈り、葬儀を政府で執り行わせ、長安東郊を流れる滻河の東の原に埋葬したという。
これからすると、真成は遣唐留学生として、養老元年(717)の第9次遣唐使で入唐したことが分かる。遣唐使は厳しい人選の結果選ばれたから、真成は優秀な若者だったにちがいない。そのとき19歳だった真成は、足かけ18年の在唐ののちに倒れた。没する前の年には、第10次の遣唐使が出発、
年内に長安に入っていたとみられ、真成が健在なら、この使いと帰国したことだろう。墓誌の最後にある、「身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」ということばは、その意味で胸をうつものがある。
「井真成」は中国人風に名乗った名前なので、その日本名は明らかでないが、「真成」は本名、「井」は日本姓を縮めたと考えられる。入唐者はこのような中国風の名を付けるのがふつうだった。「井」は、葛井氏か井上氏の可能性が高い。とくに葛井氏は、7世紀末から8世紀前半にかけて、遣唐使や遣唐留学生、漢文に優れた者を出した渡来系の氏族で、名前に「成」の字の付く人も少なくない。井上氏も渡来系だが、葛井氏のように目立つ活動はなく、総合的に判断すれば、葛井説が有力だろう。
葛井氏はもと白猪氏といい、祖先は5世紀後半に渡来し、文筆技術で朝廷に仕えた。一族に船氏、津氏があり、みな南河内を根拠地としたが、葛井氏はその氏寺、藤井寺が現地に残り、大阪府藤井寺市がその名を現在に伝えている。出所:『遣唐使と唐の美術』
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