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曹操 2008年08月07日(木)更新
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155~220
董卓が倒れると、庇護してくれる者がいなくなった献帝は、食糧すら手に入れることができない状態となった。各地の武将たちは、後漢王朝のことなど忘れ、自分の権勢の拡大しか考えなくなった。そんなところに、献帝に救いの手を差し伸べたのが、曹操だった。
曹操、字は孟徳。後の魏の皇帝、武帝。諡号は「帝」となっているが、生前は「魏王」の位が最後で皇帝にはなっていない。曹操の祖先は前漢時代の宰相で、祖父は宦官として権力をふるい、その養子が父である。出世コースを歩んだ曹操は、 一八四年の黄巾賊の乱では近衛騎兵隊長に任命され、討伐軍として戦った。何進と袁紹が反宦官のクーデターを起こしたときには参加せず、権力を握った董卓の誘いにも乗らなかった。
袁紹をリーダーとする反董卓連合軍に加わるが、本気で戦う気がない者ばかりのなか、積極的に戦い、敗北した。これが歴史の表舞台へのデビューである。その後、曹操は地方で力を蓄え、董卓の死後、困っていた皇帝を迎え入れたことをきっかけにして、権力への道を確固たるものにした。
曹操は後漢王朝に対して忠誠心があったわけではない。参謀の荀彧のアドバイスで、皇帝の権威を借りることで、権力を握る戦略をとることにしたのだった。このように、曹操には多くの参謀がいた。曹操自身も頭脳明晰だったが優れた人材を求め、思想や前歴を問うことなく採用し、その能力を活用した。献帝は曹操のいいなりになり、曹操を大将軍に任令する。皇帝の名のもとに権力をふるう曹操に、他の武将・豪族たちは悔しがつた。なかでも、曹操の幼馴染であり、かつては曹操を部下にもしていた袁紹は不満を抱き、二〇〇年、ついに両者は激突。「官渡の戦い」という天下分け目の戦いとなり、曹操が勝利した。
後漢帝国は名目上は中国全上を支配していたが、群雄割拠の時代となつていた。曹操が支配下に置いたのは、中国大陸の南北方向でみると中央にあたつた。北には袁紹がおり、南の呉を制したのが孫策で、彼の死後は息子の孫権が統治していた。
袁紹を倒し、北から攻められる不安が解消された曹操は、二〇八年、南下した。孫権の陣営は、曹操と戦うか降伏するかで意見が分かれた。曹操が皇帝を奉戴している以上、それと戦う大義名分がないとして降伏を主張する者と、徹底抗戦すべきとする武闘派とに分かれたのだ。主戦論を唱えた一人が、周瑜だった。彼は名門出身で、後漢王朝には人一倍の忠誠心があったため、曹操が皇帝を操っている現状をどうにかしたいと思っていた。周瑜は孫権に「陸戦では負けるが、水戦ならば勝てる」と進言。孫権は、曹操軍との戦いを決断した。そこに、合流するのが「三国志」の主人公、劉備玄徳だった。劉備と孫権は反曹操同盟を結び、「赤壁の戦い」で曹操軍に壊滅的打撃を与えた。
南に孫権と劉備という二大勢力がいる以上、曹操としては、中国全上を後漢王朝の名のもとに再統一して支配するという戦略は、破棄せざるをえなくなつた。そこで、曹操は自分の国を建国する方針に転換した。二一三年、曹操は魏公となつた。それまでは形式上は皇帝から委任されて国を統治する立場だったが、自分の領土とし、これを魏と称し、その君主として「公」と名乗ったのである。
こうして、中国の北側が魏となり、南のうちの東側が孫権の呉、西側が劉備の蜀となつた。その三つの接点であり、中国大陸の中心部にあたるのが荊州で、そこもまた北を曹操、東を孫権、西を劉備が手にしているという構図となった。
二一六年、曹操は魏王となつた。だが、ここまでだった。ニ二〇年、曹操は死に、後を長男の曹丕に託した。曹丕の部下たちは後漢の献帝に対し、帝位を曹丕に譲るように追った。献帝は抵抗したが、魏の兵士たちに取り囲まれたうえ譲位を求められると、ついに、帝位を譲り渡した。こうして後漢王朝は終焉を迎え、魏が新たな帝国となった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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