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刺繍仏画 2008年09月25日(木)更新
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絹・麻
縦46.0 横59.0
北魏
この刺繍の仏画は、一九六五年、莫高窟第一二五・一二六窟前の亀裂から出土したものである。破損が甚だしいものの、残存する部分では二つの内容によって構成されていることがわかる。すなわち横長の花文帯、仏説法図、そして発願文と供養者像である。
説法図は残存部分から判断して一仏二菩薩像であったと考えられる。しかし破損がひどく、そのほとんどが失われている。中央の如来坐像は脚部と腹部の一部が残る。身に赤色の袈裟をまとい、反花の蓮華座に結跏趺坐している。左足の先を袈裟の外に出しているのが見える。中尊像に向かって左側には、両足首を露出させて立つ協侍の菩薩像が見える。波状に衣文を連ねた緑色の裙を着け、天衣を垂下させる。膝から上の部分は失われ、わずかに親指と人差し指を軽く曲げた右手の先だけが残っている。中尊像と菩薩像の間の空間には、青、緑、赤の三色による忍冬文と三弁の小花が飾られている。中尊像の向かって右側はいますべて失われているが、もとはここにも脇侍の菩薩像が表されていたのであろう。
発願文は縦約十一センチ、横約十六センチの区画で、如来坐像の真下、画面の中央に配置されている。文は右から左へ縦書きに記され、もとは十四行各十一字のものであったが、すでに半分近くの文字が失われている。現存する部分に″……・十一年四月八日直懃廣陽王慧安造″という文字がある。供養者像はこの発願文の左右に表される。まず向かって右側では、わずかに一人の比丘像の下半身の袈裟の一部、男性供養者像二人分の両足と一人分の頭部の断片が残るだけである。男性供養者はおもながで、まっすぐの眉、丸い目をして、後方に垂飾が付いた黒色の円頂形高帽をかぶっている。足には黒い長靴をはいている。 一体に付された榜題は″……。王″の一字だけが残っている。発願文の向かって左側には、比丘像一体と女性供養者像四体が残っている。比丘像は剃髪して、袈裟を偏袒右一肩に着け、右手は甲を外に向けて胸にあて、左手は蓮茎を持つ姿に表されている。榜題に″師法智″と記されている。比丘の後方に配される女性供養者像はいずれも同じ服装とポーズで表され、ともに紫褐色で頂部が下方へ少し切れ込んだ後方垂飾付きの高帽を戴き、桃形の忍冬文と唐草をあしらった襟付きの長衣を纏っている。両手のポーズは比丘像と同じで、ただ左手の花の種類が異なっている。四人の長衣は一人目から赤・紫を交互に繰り返し、赤の長衣を着ける二人は緑色の裙、紫の長衣を着ける二人は黄色の裙の裾を長く表している。それぞれの榜題には順に″廣陽王母″″妻普賢″″息女僧賜″″忠女燈明″の文字がある。 説法図・発願文・供養者像が一枚のものであるのに対して、花文帯はこれらとは別に離れてある。その内容は、連珠による亀甲文と円環文を連ねて主文帯とし、その空間へ忍冬文、花のつぼみや萼(がく)の文様を散りばめてある。
この刺繍仏画の構造は、三層の織物を重ねており、表裏は細く柔らかな平織りの絹織物で、間にやや目の粗い麻の織物をはさんである。説法図に発願文と供養者像は、間地の部分を含んで、全面絹織物の地に「鎖繍(くさりぬい)」の技法で刺繍が施されてある。いっぽう花文帯の方は文様部分のみを刺繍で表し、他の地の部分は黄褐色の絹繊物のままで刺繍を施していない。刺繍には何種類もの色糸が用いられているが、地には浅黄色の糸が用いられている。描写の色使いとしては、赤、黄、緑が多く、次に紫、青が使われる。赤は主に服飾や人物の鼻、耳、手、「足などの表現に使われ、緑や青は花文、紫褐色は冠帯、靴などに使われている。画面の配色は調和がとれ、色彩は鮮明かつ濃密である。刺繍の技術も精緻である。現状から判断して、この刺繍仏画はもともと長方形のものであったと推定できる。仏教を題材にした刺繍の遺品としては早い時期のもので、その発見は、漢から唐に至る刺繍工芸の変化を理解する上でその空白を埋めるものであった。
発願文に記された年紀、発願主の位階、画面の内容と構図、人物の服飾、そして文様表現などから、この刺繍仏画の年代は北魏の太和十一年(四八七)とみなされる。発願主は北魏の四代の廣陽王のうちで仏教を信仰することにもっとも篤かった元嘉であろう。この刺繍仏画は廣陽王一家が仏寺に喜捨したものであった。ただし、廣陽王あるいはこの家の人が敦煌へ来たという記録はない。これほど優れた技術を示す刺繍は、おそらく敦煌では作ることのできなかったもので、僧侶などによって国都平城(現在の大同)からもたらされ、敦煌莫高窟に伝わったのであろう。敦煌と中原の密接な交流を物語る一例である。出所:『砂漠の美術館-永遠なる敦煌』中国敦煌研究院設立50周年記念
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