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南中征伐  2008年09月12日(金)更新

南中征伐
【和:なんちゅうせいばつ
【中:Nan zhong zhen fa
秦・漢・三国|>南中征伐

  建安十二年(207)、劉備に対して天下三分の計を披歴したとき、諸葛亮はすでに、「西方の異民族をなつけ、南方の異民族を慰撫すると」との重要性を指摘していた。このため蜀を領有したのち、劉備は融和政策をもって少数異民族に臨み、南中でも平穏な状態が続いた。しかし、劉備の呉出撃が失敗したころから、蜀政権の動揺を見すかすかのように、南中の諸郡は相次いで反旗をひるがえした。
まず益州郡(諸葛亮の南中征伐後、建年郡と改称。雲市省晋寧県の東に位置する滇池を中心とする地域)で豪族の雍闓が反乱をおこし、成都の蜀政権中央から派遣されていた太守を殺害、呉と手を結んだ。のみならず雍闓は、成都から送りこまれた後任の太守張裔もまた捕らえ、呉に移送してしまう。このとき、蜀と呉の間にまだ正式な同盟は結ばれておらず、また荊州と近接した物資の豊かな南中は呉にとっても魅力だったため、孫権は雍闓を益州郡に隣接する永昌郡(蜀の南西部。雲南省)の太守に任令し、市中進出を図った。いうまでもなく、永昌郡は基本的に蜀政権のテリトリーであり、孫権が太守を任命するなど越権行為もはなはだしい。そこで雍闓が永昌郡に入ろうとしたとき、あくまで蜀政権に忠実な郡官吏の呂凱らは郡境を閉鎖して、その侵入を阻止した。永昌攻略がままならぬと悟ったた雍闓は、益州郡一帯で原住民に信望の厚い豪族の孟獲を味方に引き入れ、勢力の強化を図った。こうして孟獲が雍闓に付くと、牂牁郡(貴州省貴陽市を中心とする地域)の太守の朱褒や越雟郡(四川省西昌市を中心とする地域)の異民族の酋長高定らもあいついで反旗をひるがえし、反静はたちまち南中全域に広がった。
諸葛亮はこの情勢をしばらく静観していた。彼は呉と同盟を結び、雍闓ら反乱軍がおおっぴらに呉の支援が受けられないようにしたうえで、蜀の建興三年(225。これ以降、蜀のことが中心になるため、年号も蜀のものを使用する)、大々的に軍勢を動かし南中征伐、世に言う南征に踏み切ったのである。ちなみに雍闓によって呉に移送された張裔は、鄧芝が蜀の外交使節として呉を最初に訪問したさい、ぶじ蜀に送遠された。
諸葛亮の南征は、蜀の軍勢を三つに分け、三方面から同時に進軍するという周到な作戦をとった。諸葛亮自ら率いる西路軍は高定を標的にまず越雟郡に向かい、蜀の南中軍事責任者にあたる(厂+來)降都督李恢の率いる中央軍は、雍闓と孟獲を標的として根拠地の平夷(貴州省華節県)から建寧郡(もとの益州郡)に向かい、馬忠の率いる東路軍が朱褒を標的に牂牁郡に向かうという段取りである。李恢の率いる中央軍だけがやや苦戦したものの、けっきょく三方面軍とも連戦連勝、破竹の勢いで南下を続け、半年たらずで南中の反乱をみごと平定したのだった。 付言すれば、中央軍のリーダー李恢はもともと南中の建寧郡の出身だが、劉備の蜀攻略がはじまった時点でその傘下に入り、馬超を漢中から迎える使者の役を果たした人物である。のちに劉備はその土地勘を買い、李恢を南中軍事責任者のポストに就けた。南中征伐戦の途中、蜀の中央軍が昆明(雲云南省昆明市)で反乱軍に包囲されるなど苦戦しながらも、最後に勝利を得たのは、南中に詳しいリーダー李恢によるところが大きい。また、東路軍のリーダー馬忠はながらく出身地巴西郡の地方官吏をつとめたのち、夷陵の戦いに敗れ白帝城にいた劉備のもとに、巴西郡の大守の使者として赴いたことから、劉備の知遇を得た。劉備は馬忠を高く評価し、「黄権を失ったかわりに馬忠を得た」と称賛したという。南中征伐以後、馬忠は蜀の南中支配の要となり、鎮南将軍にまで至る。
さて諸葛亮の南中征伐は、蜀出身の李恢や馬忠の活躍によって順調に成果をあげ、反乱の首謀者高定、雍闓、朱褒は次々に滅んでいった。ただ孟獲だけはあくまで屈服せず、ゲリラ的戦法によって抵抗をつづけた。手を焼いた諸葛亮は懸賞金をかけ、ようやぐ孟獲を生け捕りにすると、蜀軍の陣営を観察させて、「どうだ」とたずねた。すると孟獲は、「以前は中のようすがわからなかったために敗北しましたが、いま陣営を拝見させていただき手のうちがわかりました。この程度なら簡単に勝利がおさめられます」と答え、まったく恐れ入ったふうもない。
諸葛亮は笑って孟獲を釈放すると、もう一度戦わせた。孟獲はまた敗北し、また捕まった。こつして七回捕らえ七回釈放したところ、孟獲はもはや立ち去ろうとせず、「公は天のご威光をお持ちです。われら南人は二度と背かないでしょう」と、心からの服従を誓った。原住民に人気の高い孟獲を心服させたことにより、諸葛亮は、南中を単に武力制圧するのではなく、その地に住む者の心をとらえることができた。伝説では、この孟獲の釈放劇の舞台となったのは、雲南省西部、洱海湖のほとりにある風光明媚な大理の町だとされる(実際には諸葛亮率いる西路軍は大理を経過していない)。
孟獲を心服させ、さらに南下をつづけた諸葛亮軍は、昆明の南、滇池まで到り、ここで李恢の率いる中央軍、馬忠の率いる東路軍と合流、大成功のうちに南中征伐は終わる。
南中平定後、諸葛亮は原住民のリーダーをそのまま登用し、自主的に市中を治めさせる方針をとった。この自治政策は南中の原住民をよろこばせ、少なくとも諸葛亮の存命中、彼らは二度と反旗をひるがえさなかった。孟獲釈放劇といい自主政策といい、諸葛亮は終始一貫して、南中の原住民を心服させることを最重視したのである。ちなみに、かの孟獲はのちに成都の中央政府入りし、御史中丞(検察庁長官)にまで出世したという。
南中征伐に先立ち、諸葛亮は愛弟子の参軍(幕僚)馬謖に意見を求めたことがある。馬謖は答えた。「用兵の道は心を屈服させることを上策とし、武器による戦いを下策とします。どうか南中の反乱者たちの心を屈服させられますように」。この才気あふれる愛弟子の言葉をヒントに、諸葛亮は南中統治のイメージを固めたのだった。南中すなわち雲南省から貴州省一帯にかけて、真偽のほどはさておき、諸葛亮に関する遣跡や遺物がいまも無数に見られる。けっして威圧的でなかった諸葛亮に対する、南中の人々の敬愛の深さを示すものといえよう。
それはさておき、南中征伐の勝利は、蜀にさまざまな利益をもたらした。金、銀、銅、鉛、錫などの鉱物資源から耕牛、戦馬までが続々と成都に運ばれ、兵員も調達された。そもそも諸葛亮が南中征伐に踏みきったのは、次なる課題である北伐のための条件作りにほかならなかった。まず第一に、北伐にさいし後顧の憂いをなくす必要があったこと。後方の南中が不安定だと、おちおち北伐に専念することもできない。第二に、物資も豊かなら人も多い南中から物資や兵員を調達するルートを確保しておく必要があったこと。第二に、これがもっとも肝腎な点だが、本格的な戦いである北伐のためのリハーサルを行う必要があったこと。諸葛亮は軍師とはいえ、攻城野戦に明け幕れた劉備軍団の猛者と異なり、自ら軍勢を卒いて戦った経験はきわめて乏しい。劉備が蜀を支配下に収めてからはなおのこと、曹操との漢中争奪戦でも夷陵の戦いでも、諸葛亮はつねに成都で留守を預かり、 ついぞ前線に出たことがなかった。だからこそ、さして難敵でもない南中の反乱者を鎮圧するために、ものものしい作戦計画を立て、自ら軍勢を率い乗り出して、予行演習をおこなったのであろう。
劉備の死後、またたくまに呉との同盟関係を修復し、蜀の国内情勢を安定させ、南中を舞台に軍事演習もクリアした諸葛亮は、こうして懸案を完壁に片付け終わると、いよいよ宿願の魏への挑戦、北伐を開始する。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

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