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石鼓文(先鋒本) 2009年3月7日更新
【和:せっこぶん(せんぽうぼん)】 |
【中:Shi gu wen】 |
春秋戦国|彫刻・書画|>石鼓文(先鋒本) |
一帖
紙本墨拓
縦18.0 横10.4
戦国時代・前5~4世紀
天子が地方を巡狩するときの情景を、四言を基本とした韻文に詠い、これを太鼓に似た花崗岩質の十個の石に刻したものである。その形状から石鼓と呼ばれる。唐時代の応応物や韓愈、あるいは宋時代の蘇軾(一〇三六~一一〇一)らによって、詩にも詠じられて広く世に知られてきた。その書体は、篆書の母体と考えられている 籀文(大篆)で書かれている。
石鼓文はその文章が、中国最古の詩集『詩経』小雅の「車攻」に類似する部分があり、「車攻」の詩は周の宣王が狩猟を行なったときの詩と解釈されることから、かつては周の宣王のときの書と考えられてきた。その後、石鼓の制作年代については、春秋時代の初期にあたる秦襄公八年(前七七〇)とする郭沫若説、戦国時代の秦の秦献公十一年(前三七四)とする唐蘭説など異論が提出され、その推定年代は研究者によって開きがあったが、現在では唐蘭の説く、戦国時代の秦とする考えに傾いている。
石鼓の原石は、唐時代の初期に陳倉(陝西省宝鶏市郊外)の田野で発見され、鄭慶慶が鳳翔府の孔子廟に置いたが、五代の乱で散逸した。のち、北宋の司馬池が鳳翔府の知事になったとき九個を府学に集め、皇祐四年(一〇五二)の頃、向伝師が残りの一つを民間に発見したときには、すでに石鼓の上部は切りとられ、石臼として使われていたという。現在の第六鼓がそれである。大観年間(一一○七-一〇)に、鳳翔府から開封の大学に移されたが、金の時代には燕京に運ばれ、その後幾多の戦乱を経て、現在は北京の故宮博物院に保管されている。明時代の大収蔵家である。安国は十種もの石鼓の旧拓本を人手し、自ら鼓斎と称するほどであった。中でも、特に優れた北宋拓の三本を、軍兵の三陣になぞらえて先鋒本・中権本・後勁本と名づけ秘蔵していた。先鋒本は上下二帖からなり、毎葉二行、一行三字、四百八十字を存している。中権本は毎葉三行、一行五字、字数は四百九十七字を存し、後勁本は毎葉三行、一行四字、四百九十一文字を存している。出所:書の至宝-日本と中国2006
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