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荊州争奪  2008年09月08日(月)更新

荊州争奪
【和:けいしゅうそうだつ
【中:Jing zhou zheng duo
秦・漢・三国|>荊州争奪

赤壁の戦いで惨敗を喫した曹操は敗残の兵を率い、華容道づたいに西へ向かい逃走を開始した。めざすは荊州の軍事拠点の江陵である。兵士は疲労困憊し、道はぬかるみ、おまけに大風まで吹きつけるなど、この逃避行は困難をきわめた。万策尽きた曹操は、戦力にならない力の弱い兵士に草を背負わせて、土嚢がわりにぬかるみを埋めさせ、その上を騎馬部隊が通過するという策をとった。これでは踏み台にされた兵士はたまったものでない。たちまち踏みつぶされ、ぬかるみにはまって命を落とす者が続出した。この残酷な話は、曹操がいかに追いつめられていたかを、無残な形でクローズアップするものといえる。
周瑜は、必死の逃走を続ける曹操の追撃にかかった。のみならず、この時点になってはじめて、それまで戦力を温存しなりゆきを静観していた劉備軍も動きだし、曹操追撃に乗り出した。むろん、したたかな軍師諸葛亮は、赤壁の戦いの決着がつくとすぐ、劉備のもとにもどっている。周瑜の軍勢が水路をとって長江をさかのぼれば、かたや劉備軍は陸路華容道を西へ向かう。こうして両軍は競って曹操のあとを追ったのだった。
だが、逃げ足のはやい曹操は、水陸両面からはげしく迫ってくる迫手をなんとか振りきり、江陵にたどりついた。『三国志演義』は、曹操が首尾よく逃げきれたのは、実は、諸葛亮の命をうけ華容道で待ち伏せしていた関羽が、かつて捕虜になったさい曹操から受けた恩義を重んじ、あえて敗残の曹操一行を見逃したからだというふうに、大いに虚構を膨らませている。このくだりを描いた第五十回「関雲長、義によつて曹操を釈つ」は、『三国志演義』屈指の名場面にほかならない。
ともあれ危機を脱した曹操は、従弟の曹仁と徐晃を後に残して江陵の守りを固めさせ、また楽進を襄陽に駐屯させて、荊州のおさえとする手筈を整えると、北方へ帰って行った。
それにしても、なぜ曹操は、呉軍を圧倒する大軍勢を擁しながら、予期せぬ大敗を喫したのだろうか。物理的な敗因としては、たしかに先に周瑜が指摘した数々の要素があげられよう。しかし、視点を変えてみると、赤壁の戦いには、北と南の地域的な対決のみならず、世代間対決の様相も顕著にみられるのだ。この戦いの時点で、曹操はすでに五十四歳。かたや周瑜は三十四歳、孫権にいたっては曹操の半分の年の二十七歳にすぎない。また魯粛はやや年かさで三十七歳、諸葛亮は孫権と同世代で二十八歳であった。黄巾の乱以来、二十余有年、戦いにつぐ戦いをくぐりぬけ、あまたのライバルを打ち倒して北中国を制覇した曹操は、息子の世代の彼らにひけをとるとは、思いもよらなかったにちがいない。そんな心の隙が、あるいは予期せぬ事態を招いてしまったのかも知れない。
もっとも、曹操は勝ちっぷりも豪気なら、負けっぷりも鮮やかなのが身上だ。徹底的に負け、また不死鳥のように甦る。曹操はその詩「歩出夏門行」の一節で、こう歌っている。
老驥は櫪に伏すも 志は千里に在り 烈士は暮年になるも 壮心は已まず
「老いたる名馬はうまやに寝そべりながらも、千里の彼方を馳せる夢を見つづけ、勇者は晩年になっても、壮烈なパトスを失わない」。小賢しい青ニオの小僧どもにしてやられてたまるものか。かくして赤壁の敗戦後も、曹操は老いをものともせず、小刻みに出兵をくりかえし、江南制覇を狙いつづけるのである。
さて、曹操が捲土重来を期して北方へ帰還したあと、荊州の領有権をめぐって、 一気に孫権・周瑜と劉備・諸葛亮の対立が激化する。曹操を追撃して江陵に到達した周瑜は、曹操が荊州のおさえとして残留させた曹仁を、はげしく攻めたてたが、守りに強い曹仁はしぶとく応戦、なかなか屈服しない。 一年にもおよぶ長期戦となるうち、周瑜は流れ矢にあたって重傷を負ってしまう。周瑜負傷の情報をえた曽仁は、すわチャンス到来と軍勢を率いて、周瑜の本陣に迫った。このとき、周瑜は痛みをこらえながら、陣中をまわって部下を激励し、感激した兵士は奮い立った。曹仁は恐れをなし、ついに江陵を放棄して撤退するに至る。この結果、周瑜は孫権により南郡太守に任令され、ようやく江陵に入城したのだった。すでに建安十四年(ニ〇九)も暮れかかったころのことである。
「周瑜が曹仁との戦いに忙殺されている隙に、劉備はすばやく手を打った。もともと荊州を支配する資格のある劉表の長男劉琦を、荊州の牧に仕立てて表看板とする一方、劉備軍団の精鋭部隊を派遣し、あっというまに荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を制圧してしまったのである。これは、むろん諸葛亮の戦略にほかならない。諸葛亮の天下三分の計は、まず荊州を支配することがポイントだったのだ。赤壁の戦いの間、なりをひそめていた軍師諸葛亮の恐るべき辣腕が発揮されるのは、実はこの荊州攻略の時点からなのである。
劉備は、諸葛亮を軍師中郎将に任じ、制圧した四郡のうち、長沙・零陵・桂陽の三郡を治めさせ、趙雲を桂陽太守に任じて赴任させた。行政家としてすぐれたセンスをもつ諸葛亮は、さっそく住民から賦税を徴収して、軍事費を調達するなど、さらなる飛躍のための準備を進めた。かたや桂陽の太守になった趙雲は、劉備の信頼にこたえ、いかんなくその硬骨漢ぶりを発揮する。前任の桂陽太守の趙範が趙雲を懐柔すべく、美貌の誉れたかい亡兄の妻との縁組をもちかけて来たとき、趙雲は同姓を理由にきっぱりはねつけた。さすが厳格をもって鳴る趙雲だけのことはある。
劉備は荊州の土地を手中におさめたのみならず、荊州の有能な人材をも傘下に吸収した。後年、曹操と劉備の漢中争奪戦で、勇名をとどろかす老将黄忠、「馬氏の五常(五人のすぐれた兄弟)、白眉が最優秀」と謳われ、秀オ兄弟のトップにあげられる馬良(眉に白い毛がまじっていたので「白眉」と呼ばれた)、 のちに諸葛亮の愛弟子となったその弟の馬謖。彼らが、その代表的な存在である。
周瑜が赤壁の戦いで戦力を費やし、引き続いて曹仁と激戦を繰り返している間に、劉備は諸葛亮の指導よろしきを得てちゃっかり荊州の土地や人材を手に入れ、漁夫の利を占めたわけだ。周瑜が不快感をつのらせたのも無理はない。といっても食うか食われるか、はやいもの勝ちが乱世の鉄則なのだから、ここは軍師諸葛亮のあざやかな戦略に、軍配をあげるべきなのだろう。それにしても、『三国志演義』第五十一回から第五十七回までの「三たび周瑜を気す」のくだりは、州荊の領有をめぐって、諸売亮にキリキリ舞いさせられる周瑜の姿を極端に戯画化して捕いているが、これは周瑜にとってあまりに酷にすぎる。ちなみに「気す」とは、激怒・激昂させる意である。
さて劉備の表看板の劉琦がほどなく死去、劉備が自ら荊州の牧を名乗り前面に出て来ると、周輪と劉備・諸葛亮の対立はますます激化する。劉備は、周瑜の治める江陵の真南にあたる公安(湖北令公安県)に陣を敷き、周瑜と対決する姿勢を顕示したのである。
劉備のこうした一連の動きに脅威をおぼえた孫権は、自分の妹を劉備に嫁がせ牽制しようとした。劉備の正妻の廿夫人は、長坂の戦いのおり趙雲に救出されたものの、その直後に亡くなっていたのだ。劉備の再婚相手となった孫権の妹すなわち孫夫人は、武勇にすぐれた活発な女性であった。彼女は結婚後も、自分のまわりに、刀を持った大勢の侍女をズラリと並ばせることを好んだ。このため劉備は彼女の部屋に入るたび、びくつきどおしだったという。もっとも彼女にしてみれば、劉備の驚く顔をみるのが、おもしろかっただけかも知れない。二年後の建安十六年(ニ一一)、劉備が蜀に出陣したあと、孫権の意志で孫夫人が呉に呼びもどされるまで、その夫婦仲はいたって睦まじかったようだから。
夫婦仲はさておき、この縁組によって孫権側と劉備側の緊張した関係は、しばし緩和されたが、建安十五年(二一〇)、劉備が自ら、当時の孫権の本拠京口(江蘇省鎮江市)に出向き、荊州全土を借用したいと要求したことから、ふたたび緊迫した。
劉備が攻略した荊州商部の四郡、および劉備の根拠地の公安については、すでに孫権も周瑜もその支配権(借用権)を追認していた。しかし、自分を頼って身を寄せる者がふえたため、この四郡だけでは足りないと、劉備は主張したのである。江陵にいた周瑜は、このとき孫権に急いで手紙をとどけた。その内容は、そのまま劉備を呉にひきとめて、りっぱな宮殿や美女で骨抜きにし、また劉備配下の猛将関羽および張飛を劉備から引き離して、それぞれ別の地方に配置するようにと、勧めるものであった。しかし、孫権は北方の曹操に対抗するためには、劉備との協力が不可欠であると考え、周瑜の提案を受け入れることができなかった。
周瑜がそんなシビアな提案をしたとは露知らず、ほどなく劉備は無事に公安に帰還した。そもそも諸葛亮は、周瑜のいるかぎり、そんな虫のいい話が受け入れられるはずがないと、はなから劉備の京口行きに反対だった。ずいぶんあとになって、周瑜の立てた計略を知った劉備は、「天下の智謀の士の考えは一致するものだ。道理で孔明が行くなと止めたはずだ。危うく周瑜の罠に落ちるところだった」と、慨嘆したという。
このころ(建安十五年)、荊州に隣接する蜀は、北のかた漢中(陝西省西南部)に依拠する道教の一派五斗米道の教祖、張魯の攻撃をうけ、動揺しはじめていた。蜀の支配者劉璋は暗愚であり、とても緊急事態に対処できるような代物ではない。こうした時勢の変化をよみとった周瑜は、またもや諸葛亮に先手を打たれてはならじと、急遽、京口の孫権のもとに出向き、蜀出撃を願いでた。
周瑜の戦略はこうであった。まず蜀と漢中を奪取したうえで、曹操と敵対する西涼(甘粛省を中心とする地域)の猛将馬超と同盟を結び、函谷関の西から曹操に迫らせる。一方、蜀からとって返した周瑜自身と孫権は、江陵の北に位置する襄陽を拠点に、まっすぐ北上して曹操を追いつめる。これは、全国制覇を視野に入れた、なんとも壮大なプランであった。孫権は許可した。
しかし周瑜は、蜀出撃の準備を整えるために、いったん任地の江陵にもどる途中、巴丘(湖南省岳陽市)で病み、あっけなく急逝してしまう。ときに周瑜三十六歳。わずか二万の軍勢を以て、曹操八十万の軍勢を打ち破った天オ軍事家周瑜は、好敵手諸葛亮との火花を散らす頭脳戦のさなか、無念にも退場してしまったのである。その周瑜の遺言をうけ、孫権は後任の呉軍最高責任者に魯粛を任命した。魯粛は周瑜と異なり、劉備や諸葛亮にもともと好意的であった。そのためもあって、彼は周瑜のシビアな対決路線を転換し、柔軟な協調路線に切り替えた。対曹操同盟を強化するために、魯粛は劉備側のかねての要求をうけいれ、荊州を貸与するよう孫権に進言、孫権もこれを承認したため、もつれにもつれた剃州問題も一応の解決を見た。といっても、これはけっして呉が完全に荊州から手を引いたことを、意味するものではない。呉軍の最長老程普が夏口に、魯粛が赤壁のすぐ南の陸口に駐屯するなど、呉は依然として荊州に強力な軍事拠点を確保しつづけたのだ。対立の激化を回避しつつ、実質的に自らの勢力国と影響力を保持しつづけようとする、魯粛の巧妙な戦略だったともいえよう。さすが周瑜が自らの後任として、強く推しただけのことはある。しかし、やはり蜀出撃を目前にして周瑜が夭折し、呉が魯粛の柔軟路線に転換したことは、劉備と諸葛亮にとって幸運であったと、いうしかない。このおかげで、彼らは荊州に拠点を残しつつ、蜀攻略をつつがなく進行させることができたのだから。かくして荊州から蜀へ、諸葛亮の天下三分の計は、いよいよ第二段階へ入ることとなる。出所:「三国志を行く 諸葛孔明編」 

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